泰平賞発表用掲示板
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<評>
投稿者:
審査委員長
投稿日:2004年 7月28日(水)17時06分26秒
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<評>
> べたべたおしめぬらしもうろくじいさんさんさいじくろうもしらぬめしおたべたべ(by:あれおん No.2301)
あれおん氏は第13回公募の初投句以来ひたすら回文のみを詠み続けている。そんなこだわりと、クオリティーの説得力が多くの人を惹き付けたのだろう、今回は回文の投句が非常に多い公募となった。そしてそんな回を象徴するように、泰平賞句も回文となった。これも何かの縁。これを機に もう一度「回文」というものを見直してみる。
■ 森ウィーク泰平賞論評の修正案
実は回文が泰平賞をとるのは森ウィークの「わたしまけましたわ(by: 直子 No.598)」以来2回目だ。ので、「回文」をネオ自由律で奨励する理由は森ウィーク泰平賞論評を見てもらえば良いはずだ。しかし、実はあの論評は僕にとって、一番「修正したい」論評なのだ…。でも、「過去の作品は いじらない」と決めているので直せない…。ので(ホーキング博士も自説の誤りを認めたことだし)この場をかりて修正案を発表する。回文の「自立性」についての、いわゆる要の部分は変わらないのだが、気になるのは現在の伝統芸能/伝統文化のとらえ方と印象派がどうの、という部だ。
> 「伝統芸能/伝統文化のとらえ方」「印象派がどうの」部修正
1)あの論評を書いてから約一年、様々な日本の伝統文化/芸能を見聞きし、それらに携わる人に会って来た。そこで感じたのは、それら伝統文化/芸能は「延命装置をつけられた植物人間のよう」に「『不自然』な状態で生き続けている」のではなく、単純に、それらの基礎理念を引き継ぎ、新しい風を入れ、ジャンル自体を活性化させる新世代が現われていないか、それら新世代を受け入れる環境がないかのどちらかだということだ。いずれにせよ若者が出て行ってしまった過疎の村のような寂しさと閉鎖感はあるが、「延命装置をつけられた植物人間のよう」に「『不自然』な状態で生き続けている」的表現は とても不適切でした。
2)昔の俳句や短歌を見直すと、実は印象派がどうの という解説は説得力を持たないことに気付かされる。大体、印象派自体が日本の「自立した」伝統絵画に影響を受けたモノであるし…。回文の歴史を調べると、なんと平安時代の「むら草に 草の名はもし そなはらば なぞしも花に 咲くに咲くらむ(from「奥義抄」1124〜1145年頃、by: 藤原清輔)」がパイオニアだそうで。それから短歌やら俳句やら川柳やら狂歌やら、あらゆる日本の伝統文学に取り入れられたそうで。文学表現に「回文を取り込もうとする姿勢」があることを考えると、むしろ「印象派」が影響を受けた日本の伝統絵画同様、日本の伝統文学も早くから「自立」していたのではないかと思わされるわけなのです。
まとめ)以上の2点が森ウィーク泰平賞論評のイケ好かない部分である。若気の至りということで許して下さい。ということで、論じなおし。
日本文学には、伝統的に、外部の風景を描くだけではなく、作品に内在する要素で作品を作り、作品を「自立」させようとした歴史がある。平安時代から続く、俳句、短歌、川柳、狂歌等に「回文」を取り入れる行為はそれを象徴しているのではないか(あと、すべてのひらがなを一回ずつ使って詠んだ「いろはにほへと…」等もそうだな)。「ネオ自由律」を現代版の俳句として発表するからには、日本文学における「精神性」の保持、もしくは純化/還元を行っていきたいと思っている。「回文」は日本文学に伝統的に存在している精神性の一端であろう「自律性」を喚起する。故に、ネオ自由律では「回文」を奨励し、積極的に研究しようと思っている、ということである。いかがでしょう。一年でちゃんと成長できたかしら…。
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