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フェイク 第1565号

 投稿者:宿坊  投稿日:2017年 1月30日(月)20時02分49秒
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  (発行=17.01.29)

大火で失意の法主・日盛が隠遁
大石寺での消火訓練に関する一考察 ㊦
日英の「再住」まで二ヶ月間、猊座は空白

 日蓮大聖人は「経に曰く『設い大火に入るも火も焼くこと能わず、若し大水
に漂わされ為も其の名号を称れば即ち浅き処を得ん』又云く『火も焼くこと能
わず水も漂すこと能わず』云云、あらたのもしや・たのもしや」(上野殿後家
尼御返事)と記されている。

 このように大聖人が教えられている法華経の功徳に反して大石寺で火災が相
次いだのは何故か?

 最近の対山坊の坊主のように強風の日に焚き火でもしていたのか? 信仰心
がなく寺を守る責任感も使命感もなかったのか? 日顕とその一派の坊主のよ
うに堕落して遊蕩に耽って生活が乱れていたのか? 何よりも諸天善神が大石
寺を見放していたと見るのが妥当ではなかろうか。

 本紙前号で紹介した大石寺の火災のうち元治二年二月二十八日の大火は客殿
・六壺・大坊を焼失した被害に加えて、五十二世日霑と五十三世日盛との確執
が広く知られる契機になった。

この元治二年二月二十八日の火災と日霑、日盛について六十六世日達法主は
次のように述べていた。

 「第五十三世日盛上人の代になりますと『元治二年乙丑二月二十八日 客殿
・六壺・大坊を焼失(年表)』と、せっかく今まであった大坊も全部焼けてしま
ったのです。そのため、日盛上人は御隠居なされたのです。それからまた、霑
尊が再び猊座へつかれた」

 日達法主の話は事実とは違う。約二ヶ月間、猊座は空白であった事実を隠し
ている。日霑自伝等によると、大石寺は大騒動になっていた。当時、江戸にい
た日霑に南之坊の住職が、隠居していた五十一世日英の使いとして急報を持っ
て来た。

 「二月廿八日の夜半、大坊の下男部屋より出火し構内一宇も残らず焼亡すと、
是を聽き大愕悲動し、遽に東行を止め直ちに歸山を計り、其三月中旬歸山す、
爰に一山の大衆事情ありて大に沸騰し、擧って盛師に迫る、予聞にたへず…其
五月初旬,久成坊等同伴にて歸山す、蓋し此時に當て盛師は謝表を残して下之
坊へ隠遁の由、之を聞く…是に於て衆檀會議の上、英師御再住の事に結し予を
迎ふ」

 引用が長くなったが、要するに。大石寺が大火に見舞われた時、四十代の若
さで退座させられていた五十二世日霑は江戸へ出府していた。急いで帰山する
と、抗争の相手の日盛は誰にも相承しないで、日霑を避けて下之坊に隠遁、そ
の後は一時、行方不明になった。

 日盛の自伝によると、大火の翌日に辞任となっている。だが「富士年表」で
は五月七日に退座し、同日に第五十一世日英が高齢にもかかわらず「再住」、
その後は日霑が再び登座したと誤魔化している。

 ところが実際は三月、四月の二ヶ月余、猊座は空白だったのである。

 ここで特に注目されるのは衆檀会議、つまり僧と俗の会議で次の法主を検討
し、日英の再住を決めたことだ。

 平成元年六月、日顕は日霑の第百回遠忌の際に「日霑上人が書き残した自伝
の内容は一般信徒には知られたくない」旨、発言した。

 高僧の確執が知れ渡ると「富士の清流七百年」が粉飾された歴史だと分かっ
てしまうからだろう。

 この日霑と日盛の確執は別の機会に改めて詳述する。



 
 
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